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2008年3月

2008年3月30日 (日)

Happiness/国民総幸福

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昨日は父の誕生日でした。

花束を抱えて普段の不義理をわびながら実家に寄りました。

父は満74歳、かぞえで75歳。

来年は後期高齢者の仲間入りです。

子供のときはただただ恐かった父。

オシャレで、

昼も夜も仕事漬けだった。

でも、生き生きとしたバイタリティーに溢れていました。

その父も75歳を前に、

「ああ、歳をとったなぁ~。」と実感します。

気弱になったし、体もあちこち悪いようです。

医療保険制度も改革が必要なのでしょうが、

お年寄りが幸せに暮らせる世の中になって欲しいと思います。

今の子供達が夢をもって生きていくにも、

おじいちゃんが、

おばあちゃんが、

幸せにくらしているといことは何よりの希望だと思います。

今朝、テレビを見ていたら、

「国民総生産」ならぬ、「国民総幸福」という言葉が流れてきました。

国民みんなHappiness

ブータンの前国王が推進した考えかたとして紹介されていました。

GDP(国民総生産)が叫ばれる中、

人間の本当の満足度は生産量ではなくて、

全ての国民の幸せの度合いではないかという考え方で、

ブータンの国王が、最初に呼びかけたのがきっかけで、

この考えが少しづつ世界に広がりつつあるそうです。

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「国にとって大切なのはGNP(国民総生産)

よりGNH(国民総幸福量)なんです」

と、1976年のある国際会議で、

当時まだ21歳だったジグメ・シンゲ・ワンチュク国王は

そう演説されたそうです。

お金やモノより心の豊かさ、

伝統的な社会・文化、自然環境などのほうが大切だと、

一国のリーダーが、

国にとって大切なことは経済成長を続ける発展ではなく、

国民自身がそれぞれ「幸せ」だと感じることなのだ、

とはっきり宣言したということ、すごいと思いました。

Happinessはでも、はっきりとした数字に出てくるわけではない。

人の幸せはきっとひとりひとり違うし、

歴史や文化の背景によっても違うだろうけれど。

だから見えにくいけれど、

幸せとは何か?と、

私たち自身が考えなければならないのだと思いました。

GNHで国を動かす・・

私達の幸せ、ハピネス、・・・って、なんだろう?。

日本もこんな考え方でやっていく時期がきているのではないかしらと、思いました

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2008年3月24日 (月)

赤いポストに

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赤いポストを見かけました。

彦根城の前の道で。

昔の面影を残したこの街に、

どこからか運んでこられて観光事業に貢献しているのかな。

そっと、手を入れてみました。

懐かしいどきどきとした気持ちが蘇りました。

無性に手紙を書きたくなりました。

誰に書こう・・?

随分会わない友達に、

心配かけてる両親に、

遠く離れた妹に、

初恋の彼にも?(まさか!)

いつも一緒のあの人にも・・・、

手紙、出してみようかしら。

手紙なら素直な気持ちが綴れそうです。

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シラクサのペンパル(古!)からのエアメールを

心待ちにしていた中学生の頃。

拙い英語で、How are you ?

修学旅行の旅先から両親へ出した絵葉書。

「浴衣」と書くところを、「夕かた」と書いて送った伯母への手紙は、

すぐに返事が来て、「間違ってたわよ・・はずかしいよ。」と添削された・・・。

「大好きです、応援してます、・・・。」と、チョコと一緒に手渡した初めてのラヴレター。

郵便局で切手を買って、ペロリと舐めて投函した・・・

薄暗くひんやりとした印刷の匂いの郵便局。

初めてのお泊り保育、「おかあさん、元気だよ。」と、

お絵かきつきの子供達からの葉書も、

誕生日おめでとうに、いまだお説教つきの母からの手紙も・・・・、

8ミリ映画のような思い出に溢れている。

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この10年の内に、携帯で、パソコンで、

一瞬のうちに容易にメールをやり取りできるようになった。

写真も送れる。

分厚くなった封筒の重さを量って切手を選ばなくても、

もう着いたかしらと心配しなくても、

世界どこでも一瞬に・・一斉に届けることができるなんてすごい。

母はようやくメールができるようになったけれど、

でも、こんな風です。

「寒のもどりでしょうか、このところ寒い日が続きます、

お元気ですか、お変わりないですか、

私方は元気にしております。先ほど少しですが

筍を送りました。貴女もお忙しいでしょうが、

またみなの顔を見せに来てください。

〇〇さんに(夫の名)によろしくお伝えさい。

取り急ぎ   かしこ  母」

大切な人には折々に手紙を書きたいと思うのです。

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2008年3月10日 (月)

VOLCANO(ボルケーノ)

午後の遅い時間のスタバは、

私のお気に入りの場所。

この時間のスタバは、とてもアメリカ的な大衆的な場所だと思う。

喧騒にあるも荒涼としていて、そう、小ざっぱりとしている。

シンプルな食器は、あっさりと白く、

みな無関心に勝手がってにコーヒーを飲む。

そっけなさというような、

たんたんとした

しがみつかないよ、というような淡白さ。

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歩きつかれてここへ来ると、

例えばいつものように一人でなくて、

濃いコーヒーではなくて、

うきうきと、「ボルケーノ」という甘いデザートに

アイスカフェラテなどを買い込んで、

友達とたわいもない話をぽつぽつとしながら、

街行く人々を眺めているときでさえ、

自分が無感情にあることに気がついてしまうのだ。

私って実は薄情かも・・・というように、

私ってかなり無関心なのでは?・・・という風に。

でも、人って本当は、

いつもいつも

そうそう感情的ではいられないのだと思い至る。

そうして、ここにこうして座っていると、

たださっぱりと「生活」というものに思いを馳せることができる。

私の「感情」は私の体の中にあって、

肌に覆われていて、

その肌の周りに私を通した世間が存在し

「生活」はそこにある、というような、

「感情」と「生活」の間に厳然とある距離の事実。

そんな隙間の感覚が好きだ。

それはちょっとかなしいし、

少しなつかしく、とても普段だ、と言える。

例えば、丁寧に使いこまれてくたびれてしまった

使わなくなった白いシーツのようだし、

リビングに何年も貼りっぱなしの

子ども達が幼い頃描いた絵のようだ。

みな心のどこかに知っている、

ほこりのかぶったセンチメンタル。

それらは時間を経たことで美しく懐かしく、だが遠い。

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肩の力をぬいて、

感情不足にただ眺めるているという行為は、

だれにもある孤独という普遍を、

あっさりと、さっぱりと、そっけなく教えてくれる。

街中の生活に満ちた喧騒にあるスタバで、

わたしは生活とともにあるその「孤独」を愉しみながら、

そう、「ボルケーノ」を突っついている。

「ボルケーノ」・・火山。

この店内でしか食べることができないの。

「孤独」と「ボルケーノ」

「生活」の中の「ボルケーノ」!

まるで私のことだ!

まるであなたのことだ!

チョコレート生地は火山、

流れる溶岩はエスプレッソ、

モクモクあがる真っ白な煙はホイップクリーム。

ほろ苦く、甘く、そしてまろやかなこのデザートを、

冷たいラテで流し込む・・・・。

うふふ。

「噴火しちゃうのよ、そのときがくれば・・・♪」

商談をしているスーツの男性も、

いま買ったワンピースについて話しているあの二人も、

携帯でメールにいそがしいその高校生も、

煙草をふかしながらぼんやりしているあの人も、

ここにいるみんな、

「火山」を抱えた「孤独」な仲間。

時間の作る白っぽいベールの中においてきた、

もう一つの普段忘れていた人生を

ふいに見ることはあっても、

さっぱりとあっさりと、眺めるている。

無闇に感情的にならなくていいものの中に居るときは自由だ。

なりたければ後でなれるのだから。

でね、もしか、もしか、

自分の「ボルケーノ」に気づきたかったなら、

やっぱり夕方のスタバに行ってみるといい。

今という時間は生き生きと流れているよ。

あっさりと、そっけなく。

アツアツの「ボルケーノ」は、

店内でのお召し上がり専用デザートです。

お持ち帰りはできません。


¥450

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